「言う」と「云う」/「信じること」と「信じられること」

「言」って字には口が付いている。「云」って字はなんか伝えるっぽい意味が感じられる。人に口で言うことと、伝えることというのはおよそ同じ行為に見えるが、けっこう違う気がする。言うだけなら喋って終わりだ。仮に相手に通じてなくともそれは言ったことになる。完全におれの不勉強な解釈だが、云うはそれだけでは済まないように思う。相手に言ったことが伝わって初めて「云っ」たことになるんじゃないかな。関係ないが、「云々」を「うんぬん」と読むのは音便なのかな。
言葉ではいくらでもなんとでも言えるが、それが相手にきちんと伝わってなんらかのimpactを与えるというのは非常に大切なようにおもう。と同時にとてもとても難しい。おれは本当に好きになった人には好きだ好きだと言うのだが、果たしてそれがどれだけ伝わっているのか。もちろんただ自分が満足したいがために言っているわけではないので、相手に伝わってimpactを与えられないと気が済まない。「好きって言われたら嬉しいと思う」はおれのエゴであって、別に他の人はそんな風には思っていないのかもしれない。大切なのは気持ちよ、なのだろうか。そうやって言われてしまうということはつまりおれは言ってるが云えてないということになるのか。なにもimpactを与えられてないのだろうか。相手の心に届く声を発するようになりたいものだね。
相手の言葉を間に受けられず、何か裏があるんだろうとか、どうせ口先だけでしょとか、すぐに疑うようになってしまったのはいつからなのだろう。いつからとはっきりしたものではなく、これまでの20何年の経験の積み重ねのような気がする。人に隠し事をされたり、嘘をつかれていたことが後でわかったというような出来事が人より少し多いような気もする。数を数えたわけじゃないし、それはみんな感じていることかもしれないのでなんとも言えないけど。自分をすごく馬鹿と思う趣味もないので、なんというか多少はうたぐり深い性格になってしまった。これは後天的なものだと思う。愛してると言われたって、(本当に?他に好きな人がいるんだろう?調子いいな)とか思ってしまう。自分が信じてもらえないと嫌なくせに、なかなか人を信じない。心の底から100%相手を信じるような恋がしてみたい、と思うのと同じくらい、結局最後は捨てられるんでしょう、と冷淡になってしまう自分がいるのが恨めしい。卑屈になったってなにもいいことはないんだよな。