「理想」と「ほんとう」の差異

「理想」の反対は「現実」ではなくて「ほんとう」だと思う。それはおいといて。ぼくは「こども」と「おとな」の過渡期にある(と自分では思っている)。じゃあ「こども」と「おとな」の違いってなんだろう。ぼくが思うに、「こども」は「理想」と「ほんとう」の区別がないもの。「おとな」は「理想」と「ほんとう」を分けて考えられるもの、だ。そして、「理想」と「ほんとう」の差異に思い悩むもの、が過渡期だ。「こども」は汚れがない。自分をいつも主観的に見ている。そもそも客観的に対しての主観的なのだから、客観性のないこどもには主観性なんてない。すべてあるものがあるものなのだ。もちろん客観的なこどももいる。だけどそれはこどもであって、「こども」ではない。「おとな」は「こども」に比べて、客観性というものを持っている。自分が何者であるか、を一度アウトプットし、それを外から眺めることができる。そして、「自分が何者であるか」と「自分が何者であるべきか」の区別をすることができる。その折り合いをつけることがぼくが思う「おとな」になることなのだ。もちろん、おとなであってまるで「おとな」でないおとなも世の中にはたくさんいる。人はもしかしたらそんな人たちのことを「ろくでなし」なんて風に呼んでいるかもしれない。客観的に自分を見つめられなかった「こども」が「おとな」に近づくに連れてだんだんと客観性を持つようになってくる。すると、初めて見る「客観的に見つめた自分」と「それまで主観的に思っていた自分」との間に差異があることに気づく。これがいわゆる「なやみ」なのだ。その「差異」とどう付き合っていくかが、その人の「人生とはなんであるか」という問いの答えであり、自分の人生における「現実」なのである。だから理想の反対は現実ではない。「理想」は誰にでもあるものではないかもしれない。でも「現実」は誰にも平等に在るのだ。なやむだけなやもう。そうして一歩一歩「おとな」になっていこう。もし間違えて「おとな」になれないおとなになってしまったならば、「ろくでなし」としての人生を楽しもう。そこには多かれ少なかれ、ぼくの「現実」が待っている。「現実」は逃げない。「現実」はいつも人のすぐそばに在る。いつも人を監視しているのだ。誰も「現実」からは逃げられないのだ。という「はてな*ダイアリー(笑)」早く夏にならないかな。四季も、人生も。つかれたからさ。