過去への憧憬

出会った人、その人を深く愛おしいと思えば、その人物について深く知りたくなってしまう。それは正対する生身の人間に限った話ではなく。著名人をwikiってみることもその範疇だ。愛おしいなんて言い方慣れてないから危なっかしいけれど、恐れずに言う。愛おしい人はなにも一人、つまり恋人や配偶者だけに限ったものではない。この世に生きている限り、何人の人間を同時進行的に愛したっていいじゃないか。好きだと思う気持ちに制限はかけたくない。相手の迷惑はよく考える。他者への影響については常に敏感になるのが大人のエチケットだ。と言いつつも、自分のことを大人だと認めたわけでもないし、当分見境のない野蛮であるつもりだ。
自分は20年ちょっと生きてきた。すると関わる人間も必然的にそれと同じかあるいはそれ以上になってくる。相手のバックグラウンドを含め、全てを知りつくしてしまいたい、そしてその上で相手への視点を持ちたいと思い続けてきたこれまで。それが愛だと思ってた。でも最近思うのは全て知るには相手は「生き過ぎてしまっている」のだ。人間20年も生きていればひとつふたつみっつくせのあるエピソードをもっている。相手の全てを知ることなんてとうてい不可能だと思うようになってしまった。これが自然なのだろう。相手のこと全部知りたいだなんて気持ち悪い。そう思われてきたに違いない。知らなくても、自分の知らない空白がそこにはあるんだ、という意識を呑み込んで相手と接する覚悟ができてきたように思う。それでも愛おしい人物の過去の爪痕を愛でる時間は、この上なく幸せな瞬間なのだ。