excuse maker

 不運は常に考えられる限りにおいて最悪のときに人を襲うように思われる。自分の夢である仕事を得るための面接を受けようとしている人が交通渋滞に巻き込まれる。最終試験を受けようとしている法学部の学生は、朝起きると頭が割れそうな頭痛がしている。あるランナーは、大きなレースの数分前に足首を痛める。いずれも残酷な運命を示す申し分のない例である。
 しかし本当にそうなのだろうか?このような不運な出来事を研究している心理学者は、多くの場合、そうした不運な出来事は潜在意識によって注意深く組み込まれた計画であるかもしれない、と今では信じている。人はよくセルフハンディキャップと呼ばれる、一種の自滅的行動(あるいは、簡単な言葉で言えば、言い訳をすること)に従事することがある。それは単純な行動である。自らに大きなハンディキャップを負わせることによって、自分がある試みに失敗する可能性を高めることである。それは狂った行動のように思われるかもしれないが、それは、実は心の巧妙な策略であり、困難な状況を作り上げることによって、実際に失敗したときに面目を保てるようにするための策略なのである。
 セルフハンディキャッピングの古典的な例は、18世紀に生存したフランスのチェスのチャンピオンであった、デシャペルであった。デシャペルはチェスの名手であり、あっという間に自分の地区のチャンピオンになった。しかし、競争が熾烈になるにつれ、彼はすべての試合に対して新たな条件を採用するようになった。つまり、彼は相手がある(相手にとって)有利な条件を受け入れる場合に限って試合を行った。そうすることで彼は自分が負ける可能性を高めた。もし実際に自分が負けたとしても、それを相手の有利な条件のせいにすることができ、誰も自分の能力の本当の限界を知ることはない。しかし、もしそのような不利な条件のもとに勝てば、自分は驚くべき能力ゆえにいっそう尊敬されるであろう。
 驚くほどのことでもないが、最も習慣的に口実を作りそうな人というのは、成功を望みすぎる人である。このような人々は、どんなことにおいても失敗者というレッテルを貼られるのを恐れるために、常に失敗をうまく釈明できるよう、何らかのハンディキャップを設けておくのである。確かにセルフハンディキャッピングは、時には成功したいという願望に対処する効果的な方法にはなり得るが、しかし研究者たちが言うように、それは結局は負けることの原因となる。長い目で見れば、言い訳をする人たちは自分の本当の潜在能力を発揮できず、自分たちが強く気にかけている地位を失うことになる。そして、彼らがそうではないと異議を唱えても、悪いのは自分しかいないのである。


長文お付き合いありがとうございました。この文章は今日たまたま解いた英語の長文読解問題の全文訳です。不自然な点もあったかと思いますが、ご了承下さい。

この文章を読んだとき、僕はハッとしました。まさに自分のことなのです。
僕は昨年の大みそかに1型糖尿病を発症しました。センター試験を二十日後に、私大の一般入試を40日後に控えた、いわゆる、追い込みの時期です。その時は運が悪いなぁくらいに思っていました。しかし、この文章を読んで、運が悪かったのではなく、必然的に起こったことなのだと思い知らされました。
というのも、僕は去年1年間、他の受験生に比べ、絶対的な勉強量というものが足りませんでした。いつも自分に甘え勉強することから逃げていました。それなのにもしかしたら受かるかもなんて愚かな考えでいたのです。しかし、12月に入り、いよいよ本番が近付いてきたことで、その独特の緊張感から、僕の心には一切の余裕が失くなっていました。毎日がストレスでした。そんな時、僕は1型糖尿病を発症したのです。今から思えば、失敗することを恐れた僕は自らにハンディキャップを課すことで、受験に失敗することの口実を作ろうとしたのでしょう。(もちろんわざと1型糖尿病になることなんてできませんが)そして1か月入院して、体力も知力も完全に衰えた僕は、当然のごとく受験に失敗しました。しかし周りの人は皆、口を揃えてこう言いました。「しょうがないよ、今年は大変だったんだから」と。確かにもう少し遅れていたら、今生きていられていないということを考えるとぞっとします。でもしょうがないことなんて何もありません。落ちるべくして落ちたのですから。このまま行けば、来年だってまた何か起きるに違いありません。起こさないためには・・・そうです。努力するしかないのです。偽りのない、本物の努力を。

来年の春、心の底から笑えるように。