Entwurf!

「語彙が足りないって言われたんですよ」「『自分の好きなことや打ちこんでいることを語れないって人間としてどうかと思うよ』って言われていらっときて…」「結婚願望は特にないです。ひとりでも好きなことして暮らせたらな、って」「でも結婚式はしたいんです。すごく盛大な」「バカキャラって言われるのがすごく嫌で…。でもそうやって言われてもヘラヘラしてるしかないんです」「人生を勝ちか負けのどちらかに分けてしまうなんてすごく心の貧しい人のすることだと思うんです。でも現実はそういう人が勝っていくんですよね…。あっ言っちゃった」「あの子のこと好きって言ってたくせに、ころっと変わっちゃうんですよ。ほんと信じらんない」
なにが不満なのだろうか。ぼくは「大学」になにを投企していたのだろう。いい加減この話は終わりにしたいと思っている。リア充になりたかったのだろうか。そもそも高校の頃はリア充という言葉そのものを知らなかった。言語論的転回に則って話をすれば、リア充という言葉が、リア充に対する憧れと羨望と嫉妬を生んだのだろうか。そもそもぼくはそんなものに憧れているのだろうか。リア充という言葉を知らなければ最初から「生活が充実している人」に対して憧れることなんてなかったのだろうか。何に対してこんなにも拘泥たる思いを抱いているのだろうか。
ぼくは「この先の」人間関係からドロップアウトしてしまった。人見知りで恥ずかしいから避けたのではない。愚かだと思ってしまったのか。そう思いたくはない。答えはわからない。誰が言ったか「大学での人間関係は広くて浅い」というステレオタイプにまんまとはめられてしまったのだ。表ではにこやかに笑っておきながら、裏では陰口を叩きつつ他人を貶める。自分も同じことをされているのだとも気付かずに。そんな茶番に辟易としたのか。辟易?そんなにも人と関わっていない。辟易とする自分を想像して、あたかも現実の自分と重ね合わせ、すでにそうであるかのようにしてしまったのだ。ぼくは誰の陰口も叩いていないし、またそうであることを願っているし、そもそも陰口を叩かれるほどの人間関係をつくってはいないと信じているし、誰にも陰口を叩かれていないだろうと思っている。しかし、現実は違うのだろう。この文章を見て、「なに信じらんない。この前あの子のこと散々悪く言ってたじゃない」と思う人もいるかもしれない。いや、いるのだろう。現実はいつも自分の願望よりは自分に対して辛辣で厳然としたものなのだ。
そうは言ってもまだ2年。大規模なコミュニティで活動することはもうないのだろうけど、小さくても健やかな人間関係を築いている自分を投企せずにはいられない。焦ることはない。先は長いし、なにより「事実は小説より奇なり」なのだ。今までもそうであったように、これからも、思ったより素敵な現実が待っている。現実は時に辛辣で、時に希望に満ちあふれたものなのである。過去の現実と未来の現実、同じ現実でもこうも違うものなのだ。ならば未来が未来であるうちに、希望を投げ企てよう!Entwurf!