わがことすべて終りぬ

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

異邦人とは母が死んでも涙も見せないこと?

「……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう……」

授業の課題図書的な感じで。宗教というか、うすうす感じてはいたけど、外国人の信念とは概ねその宗教観に基づくものだと思う。自分が何であるか、自分の行動規範その他いろいろな決定はすべて自ら信じるところの神に委ねられているのだと思う。それに対し多くの日本人、少なくとも僕にそういった宗教観はない、と思う。でも剣道の大会でトイレのスリッパがめちゃくちゃだから、誰にも見られないように(これ重要)整理したら強豪選手に勝ってしまったことがある。その時は思わず天の神様のことを思った。中学の顧問はよく僕らに「陰徳を積め」とおっしゃった。いいことをするのだけど、それを誰かに見られてはいけないのである。誰も見ていないところで善を行う。それはつまりは神だけが見ているという意味で。顧問はこれを「宇宙の法則」と読んでいたけれど。それを宗教観と呼んでいいかはわからない。違うと思う。でも確かに僕の行動規範の奥底に、「いつもだれかが見ている」という感覚はある。