憧れとその行方

浪人生の頃、大学名の入ったクラッチバッグをかかえて意気揚々と歩いている大学生がすごく羨ましかった。自分もあと何ヶ月後かには、というのが勉強のモチベーションだったと言っても過言ではない。ある種の憧れがわずかなハングリー精神を引き立たせていた。しかしその憧れはどこかに行ってしまった。過去の憧れは今、実現可能な状態にある。しかし、もう憧れではないのだ。愛校心うんぬんの問題ではなく、単に持つ気がしない。あの時あれほど憧れて見学にきた大学の生協で買ったクラッチバッグは押し入れで埃をかぶっている。そこに誇りなんてものは微塵も見当たらない。(ちょっとうまいこと言ったw)この原因について少し考えてみたのだけれど、憧れ、というのは現在の状況では実現できないからこそ憧れという名前をつけられているのではないだろうか。身近な例を挙げてみれば、好きな異性と交際できるようになったらもう憧れとは呼ばないだろう。つまり実現不可能な状況こそが、対象を憧れたらしめている、ということかな。もしそれが本当なら最低向こう4年間はクラッチバッグは持たないんだな。そしてこの記事をうpしたことで持つこともできないんだな。いいし。あれ実用性なくね?電車とかで網棚にのっけたらすぐ忘れそうだし。というわけで、教科書はバッグに入れよう。