夏の終わり

僕の大切な人はいつも決まって風船のような人たちばかりだ。ちゃんとつかまえていないと、どこか遠くへ飛んで行ってしまう。
起こるはずもないってわかっているのに、そのわずかな可能性にすがりついている自分がいた。卑しい気持ちをひた隠して、僕は目の前の光景にかぶりついた。それはあまりにも突然な再会であった。
必死で追いかけていた。何もかもがどうでもよかった。
何から伝えればいいのかわからないまま時は流れて行った。
それでも目の前の光景に僕は自分の全てを傾けた。彼女はこう言った、--好きな人ができたの。だからもう会えないわ。--
時間が止まる。体中の血液が循環するのを忘れてしまったかのような感覚のあとに、全身がかっと熱くなる。--そっか。--それが僕の全力だった。

人間とはとかく移り気なものである。何も人間だけに限った話ではない。猿だって犬だって馬だって魚だって気が変わることはある。それが悪いことだとは思わない。至極当然のことだ。
しかし、人間の女性のそれはどうも納得が行かないのである。
例えばこうだ。男性が浮気するとき、たいていはそれまでの相手とは別に好きな人が出来ても、両方とうまく付き合おうとする。中にはバレバレであるにもかかわらず、あたかも完璧主義者であるかのごとく振る舞うトンマもいるが。とりあえずは両者とうまくやっていこうとする。そしてある時その事実が明るみにでて、両者からスッパリと縁を切られるのだ。しかし、女性の場合はこれとは異なる。女性は新たに好きな人ができると、以前の男性にキッパリと別れを告げるのである。だから、本質的にはいわゆる浮気はしない。この違いはおそらく生物学的な男女の違いから生じているのではないだろうか。つまり、女性には複数の男性と同時にバランスよく交際する能力は初めから備わっていないのである。1度に複数の男性と生殖し、子孫を設けることが出来ないのと、深い関連がありそうだ。だから未然に片方の男性に絞ろう、というわけだ。これはその人の性格うんぬんの問題ではなく、生物学的本能の問題なのだろう。いかんともしがたい。
ここで言いたいのはどちらがより残酷か、ということである。自信を持って言う。明らかに女性のフリ方の方が残酷である。その論拠は世間の恋愛事件に求められる。男女の情が絡んだ事件の多くは女性が殺害されるというケースが多い。やや乱暴で雑な言い方をするが、要はフラれるときは男の方が頭にきているのである。まぁ、もっとも男は未練がましいとか、執念深いとか、女はサッパリしているとか、という話を引っ張って来られると反論に窮するところではある。しかし今現在の僕の頭では、女性のフリ方は残酷だ、としか言えない。だったら、いっそのこと--あなたにはもう魅力は感じないわ。--なんて言われた方がまだ諦めもつく。
それでも僕には諦める、以外の選択肢は与えられていないようである。彼女のことは好きだが、もうそれを過去の記憶の片隅に埋葬することこそが僕の彼女に対してできる最後の優しさかもしれない。

こうしてさまざまな葛藤を乗り越える行為こそが大人への階段の1段1段だとするなら、僕はいったん歩をとめ、しばらくは今の段にとどまっていたいと思うのである。