思うこと

俺は自分を試してみたいだけなのかもな。
正直どんな結末が待っていようともすべて受け入れる覚悟はある。思い描いたように、もしくはそれ以上の結末になることを祈らずにはいられないが。
若い間はウソをついたっていいじゃないか。もちろん確信犯的なウソはよくない。それはむしろ欺きと呼ぶべきだろうが。結果論的にウソになってしまうのは仕方ない。若いうちは許されるし、許されない筋合いが無い。ただし相手は多少なりとも傷つくのだからそれ相応の謝罪は必要だと思う。

自分はそんなとき相手を許せるのだろうか。いつも調子のいいことばかり言って、言動に責任ももたず、結果論的ウソを繰り返してきた自分。そんな自分では成功への理想的な軌跡が描けないことは十分にわかったつもりではいる。このままでは人間として成長できないばかりか、そこですべてがストップしてしまう恐れもある。神は僕に試練を与えた。まだ見放されてはいないな、と思った。たしかに1型糖尿病という残酷な運命を背負わされた、と悲観的になった時期もあった。しかし、悲観的になることは間違いだった。むしろ歓迎すべき試練だと思わなければならない。すごくエキサイティングな人生になった。この運命に感謝している。試練は与えられるばかりで満足してはならない。今度はそれを乗り越えなければ。乗り越えた先にまた試練がある。楽しみだ。神はその人に乗り越えられない試練は与えないのだ。ならば必ず乗り越えられる道筋があるはずだ。その軌跡を思い描き、さらにそれにそって軌跡を辿れた時、人は1歩大きくなれると確信してやまない。

今の自分に与えられた試練を乗り越えることができるのか?と考えていた数か月前より、どうやってこの試練を越えてやろうか考えている自分がいることがこの上なく快感であり、また幸せである。



>>やなぎ
いつもコメントありがとう。
よかったじゃんww大事にしてやれよ。もう後戻りはできないぞ。昔は3日連続で男が女の家に通うのが結婚の証だったんだぞ。俺の方は上の記事の通り。とりあえずは3月に決めたことを最後までやりとおす。それが俺達のスタイルだと思う。守れなかった時点でそれが俺達の限界だと思う。可能性が無限であることを証明してやりたい。